2016年1月31日

 ツイッターをやっていたら(最悪の書き出し…)、「女は若いうちはチヤホヤされるが、何故自分がチヤホヤされるのかが分かっていない。自分の容姿のどこかが優れているんだろう、くらいにしか考えていない。しかし、それは愚かな勘違いで、ただ『若さ』によってチヤホヤされているだけなのだ。馬鹿め(大意)」という内容の福満しげゆきの漫画の画像を目にした。まったくその通りである。わたしは中学高校と女子校に通っていたので、チヤホヤされるという経験がまったく無いまま男女共学の大学に入学して驚愕した(最悪…)。18歳の女というだけで、大体のことは許されるし、一人でボーッとしていたら誰かしら構ってくれるし、「大丈夫?なんか悩み事?おれでよければ聞くよー?」だし…。まあ、そのチヤホヤも、次年度に新しい18歳の女の子が入ってきたら急激に度合いが減って、これ以上は減らんだろう、もう底だろう、と思うもさらに3年、4年へと年度を新たにする毎に、確実に減少していくのだけど。元々自分の容姿は悪いという自覚はあったので、これはなんかおかしいと思ったけど、なんせ異性からチヤホヤされるという経験が無いので具体的になんに拠るのかは、一年目の時点では分からなかった。二年目になってすぐ気付いたが。
 やがて、チヤホヤされることがどんなことか完全に忘れた昨年の春、大学を卒業してつまらん会社に入社し、これは…青酸カリ!となるのである。目下在籍している支店に配属された新人はわたしだけで、ほんと、仕事でミスして落ち込もうものならみんながコッソリお菓子をくれ、飲み会では代わる代わるいろんな人が隣の席にやって来て、わたしにだけ個別にお土産をくれ、ほかにもあるけど恥ずかしいのでやめる、とにかくもう何サーの姫だよ、と思う。今年30歳になる先輩が居り、明らかにわたしより顔も声も可愛いし、いつもニコニコしていて優しいのに、この不細工で無愛想な自分のほうがチヤホヤされている。
 23歳の女をチヤホヤする男性はチヤホヤするだけで、自分の年齢とそう大差ない女性と交際あるいは結婚しているから、これは恋愛がどうこうという問題では無く、ポメラニアンかわいいと同じなんだけど、あ、自分がポメラニアンに並ぶほど愛くるしいとは思ってないけど、こういう経験をするにつけ、女は人間では無いという考えがより揺るぎないものとなっていく。「恋愛がどうこうという問題では無く」と書いたけど、23歳に好きって言われたらうれしいんだろうなー。もちろん、30歳から好きと言われるうれしさとはまったく性質を異にする、グロテスクかつ悲哀極まる(皮肉です)理由によって。大学生のときは、「ヘルタースケルター」的意味も含め、アイドルやモデルになったがために、かわいい女の子が凄まじい短期間で消費されていってる…と嘆き悲しんでいたが、かわいくない自分の若さも凄まじい短期間で、凄まじい熱量によって消費されるとは考えもしなかった。
 「23歳の女」として「見られる」身体と、自分のこういうひねくれた性格との間の隔絶とで、また自己が分裂していく。いつまでアイデンティティクライシスなんだよ…勘弁して欲しい。来年度、新しい「23歳の女」となる犠牲者が現れても、わたしの身体は「24歳(あるいは30歳、40歳…)の女」として「見られる」だけで、なにも変わらない。死ぬまで誰でもない。うーん、ゲスのなんたら乙女の歌みたいになっちゃった、と反省したが、そのまえに思い出したのが、椎名林檎の「流行」という歌の歌詞、特に「私の名ならば女/それ以上でも以下でもない」「女の私に個性は要らない/名前は一つでいい/これ以上いらない」という部分を思い出した。全部わかっててやってやってるんだよ、と言わんばかりのかなりドライな口調だが、この歌を、何度も美容整形を繰り返し、華々しいステージ衣装に身を包むのが常である彼女が歌っていると考えると、鬼気迫るものがある。要するに嫌なことばっかりなんですよ。資生堂パーラーに行きたい。