2014年11月19日


 一昨日観た「ニーチェの馬」が面白かったのでその話。アマゾンのレビウを読んでいたら「緊迫感があり一瞬も目が離せなかった」というようなことを書いている人が居たがわたしの感じたのはまったく逆で、この映画に於いて目を離して困る場面なんて一瞬も無い。何故なら物語が無いから。神が死んだ世界では神話=物語も機能しない。たとえばわたしは両親が離婚していて、わたしの人生が一本の映画であったなら「途中寝ちゃってて分からなかったんだけど、なんでこの主人公は性格が暗いの?」と映画を観終わったあと喫茶店に入ったAが聞き、Bが「両親が離婚したからだよ」と答える。しかし現実にわたしの両親の離婚という事実を知っている人物は二人しか居ない。わたしの人生に於いて誰かが知らないといけないこと、目撃していないといけない物事なんて無い。どんなに自分にとって重要な出来事であっても。それは或いは過去の出来事である以上、これから出会う人物はみな目撃することが能わない。誰もがわたしの人生に対し居眠りをしている。
 最初、この映画はニーチェの生きていた19世紀末が舞台なのだと思っていたが、現在まで続く(繰り返されている)、神が死んだ後の世界の様子を描いていた。それ以前はこのような物語無き物語というものは存在し得ず、しかしいまわれわれがこの映画を観る苦痛というのは計り知れない。人生がいかに虚無であるか、虚無的なのでは無く虚無そのものであるかということをまざまざと突きつけられるからだ。嫌だなあ。めっちゃつらいなあ。
 日々同じことが繰り返されているが、それらは少しずつ異なっている(昨日は無かった来訪者の存在や、同じ動作を違うアングルから撮るなど)。われわれはその平面的な繰り返しによって何十年もかけて、短い一日を完成させているに過ぎないのだろう。