2014年11月19日


 一昨日観た「ニーチェの馬」が面白かったのでその話。アマゾンのレビウを読んでいたら「緊迫感があり一瞬も目が離せなかった」というようなことを書いている人が居たがわたしの感じたのはまったく逆で、この映画に於いて目を離して困る場面なんて一瞬も無い。何故なら物語が無いから。神が死んだ世界では神話=物語も機能しない。たとえばわたしは両親が離婚していて、わたしの人生が一本の映画であったなら「途中寝ちゃってて分からなかったんだけど、なんでこの主人公は性格が暗いの?」と映画を観終わったあと喫茶店に入ったAが聞き、Bが「両親が離婚したからだよ」と答える。しかし現実にわたしの両親の離婚という事実を知っている人物は二人しか居ない。わたしの人生に於いて誰かが知らないといけないこと、目撃していないといけない物事なんて無い。どんなに自分にとって重要な出来事であっても。それは或いは過去の出来事である以上、これから出会う人物はみな目撃することが能わない。誰もがわたしの人生に対し居眠りをしている。
 最初、この映画はニーチェの生きていた19世紀末が舞台なのだと思っていたが、現在まで続く(繰り返されている)、神が死んだ後の世界の様子を描いていた。それ以前はこのような物語無き物語というものは存在し得ず、しかしいまわれわれがこの映画を観る苦痛というのは計り知れない。人生がいかに虚無であるか、虚無的なのでは無く虚無そのものであるかということをまざまざと突きつけられるからだ。嫌だなあ。めっちゃつらいなあ。
 日々同じことが繰り返されているが、それらは少しずつ異なっている(昨日は無かった来訪者の存在や、同じ動作を違うアングルから撮るなど)。われわれはその平面的な繰り返しによって何十年もかけて、短い一日を完成させているに過ぎないのだろう。
 先日青山で開催されていた寺山修司を語る会(正式名称失念)に趣いた。参加者は穂村弘、俵万智、川村毅、町田康。いま調べたら田中未知という、寺山修司の秘書であった方が主催でその人が「写真屋・寺山修司」という写真集の編者であると知った。わたしが寺山修司の文字を用いた作品で唯一知っているのがこの「写真屋・寺山修司」である。中学生の頃にいまはユナイテッドアローズだかそこら辺の服屋になってしまっている、新宿ルミネ2のフロアー一帯に以前は本屋があって、中学高校とそこに通いつめていた。エスカレーターを上って本屋に入ると角に写真集のコーナーがあり、そこに「写真屋・寺山修司」はあった(壁に沿って左へ行くと小さいながらもサブカルチャーのコーナーがあった。ボーイズラブのコーナーとほぼ渾然一体となっていたので、新刊で平積みとなっていた中村明日美子の漫画をよく分からずジャケ買いし、化粧室の前にあるソファで読んで「どこに仕舞えばいいんだ」と深く悩んだ記憶)。
 その写真集は、寺山の撮った白塗りの人たちの写真と一行の詩が一頁にそれぞれ一つずつ掲載されている、という形式で今回三上博史が冒頭で朗読していた詩が、それであった。わたしはこの詩の中の「空は空想の流刑地」という言葉が非常に好き。そんなこんなで一時期新宿の本屋へ行く度にこの写真集を読んでいた、惹かれていたにも拘らず、寺山修司は中二病の読み物と決めつけて意識的に忌避というか敬遠というか触れぬよう関わらぬようにして、生きてきたのであった。完。

 忌避、敬遠と言えば今回のトークショウの参加者であり司会者でもある穂村弘に対しても大変な偏見と食わず嫌いとをしていた。というのもかねてから氏の名前は、そりゃあ有名も有名なのだから耳に目にする機会はごまんとあった。が、大体その評価・受容のされ方が、詩のじょうずな「かわいいおじさん」みたいなもので、自分と同じくらいの年齢のかわいい女の子から「かわいいおじさん」として受容されておるのは、滅茶苦茶気に食わなかった。
 これは先日の「ピアニスト」の評では無いけれど、自分の中にある男性性、それも女あるいは女の子(ゲー)として生きることが許されなかったいろいろな外的要因により男性性へと変化せざるを得なかったという畸形的な原因により屈折しまくった男性性が、男のくせに、しかもおっさんのくせに女の子から「かわいい」とチヤホヤされやがってカマ野郎、ムカつく、恥を知れ、というどうしようもない嫉妬から嫌っていたのであった。酷い話もあったものだ。ので、今回も町田康な~町田康居るけど穂村弘な~穂村弘も居るんだよなぁまた同時に、と悩んだ。でも行った。そして顧みれば、総合的に話す内容がいちばん面白かったのは穂村弘だった。本当に頭の良くユニークな方で、物事の見方が明らかに大きく人と異なり、想像力に富んでいると同時に創造性のある、面白い大人の方でした。でもやっぱり穂村弘が、というわけでは無く広く「かわいい」みたいなウケを狙う、狙ってなくても結果的にそのような評価に甘んじている男性は依然として許せません。とりわけ彼の話で面白かったのは、寺山は神様の立場で、神様からしか見えない景色(米粒のような遠くからは見えないものが見えたり、車に乗っているのが死刑囚という誰も知り得ないことを知っていたり)を歌にしていのだ、みたいな話。

 町田康の話をします。町田康はしばしば見掛けるので気に入っているのであろう「PUNK」と大きくプリントされたティーシャツをその日も着ていた。そして神妙な顔をし、終始ぼそぼそと話していた。彼以外の参加者は寺山修司に対し思い入れがあり、穂村弘に振られた質問に対し、その答え+αで応じていたのだが、特別深い思い入れも無い(「周りの友達で影響されている人は沢山居ます」と言っていたのに笑った)町田康は、質問に対する答えのみを糞真面目に述べ、穂村弘の言うおもしろ寺山評にフムフムと頻りにメモをとっていた。途中で「一応」という言葉を五回くらい連発したり、「えっと」「なんか」としどろもどろになったり、観客では無く参加者(特に穂村弘)が町田の発言に笑うとホッと安心したように破顔して関西弁が出たり、といった彼の挙動が滑稽で切なかった。
 このような二元論的な比較になんの意味も無いことは承知だけれど、穂村弘は先に書いたように物事の「見る」方法がユニークで、分かりやすく言えば目の付け所がシャープな人。対するマーチダ先生は物事の見方は凡庸だけどそれを面白く「言う」ことの出来る人なのだなと思った。

2014年11月15日

 今月の頭に新橋演舞場で十一月新派特別公演を観た。演目は「鶴八鶴次郎」と「京舞」。恋人と一緒に行ったのだけど彼が勤め先からチケットを譲り受けたとかで、二人とも歌舞伎のことはよく分からず(今回のは歌舞伎じゃないけど)、だのに桟敷席だったためかなりびびりながら観ていたのだけど、初心者にも分かりやすく面白かった。特に「鶴八鶴次郎」は素人目にも演技が上手でした。トークタイムみたいなので出てきた池畑慎之介も言っていたように、勘九郎の声がお父さんにそっくりで驚いた。それと休憩中に彼と話していたのだけど、話の筋がマーチダ先生の「夫婦茶碗」ぽかった。途中で夫婦茶碗が云々という件りもあったし。元は川口松太郎の小説だそうで映画化もされているとか。川口松太郎は「愛染かつら」だけボンヤリ耳にした記憶がある。第一回直木賞受賞者だそうで全然知らなかった。
 昨夜強く感じたことは、わたしは日々同じような思考を反復しているようでいてそれらはすべて少しずつ形を、言葉の選び方を、語尾を変えて流転している。にも拘らず、質問に対する答えとして説明するときにわたしは、それらの異なる思考たちを一つの思考へと圧縮する。更に質問者は「自分なりの解釈」という暴力で以て圧縮された思考をボロボロに踏み潰す。まったく別物になったそれを彼はわたしの心に堆積している思考たちと同一の物と見做し、わたしたちは噛み合わない会話を繰り広げる。噛み合わないから広がらないのだけど。それで昨夜心底うんざりしたのが、質問者がわたしの思考を滅茶苦茶にした挙句、同情やら激励という形で返してきたこと。こんなことがあるから、わたしは人付き合いをどんどん狭めていく羽目になる。もちろん人のせいにしているんでは無く、いちいち傷ついたり、人の意識を誇張して受け止めたりする自分が悪い。噛み合わなさに手を貸しているのは、何よりこういう愚かしい被害妄想だ。


2014年11月1日

10月観た映画
・羅生門
・ライフ・イズ・ビューティフル
・ピアニスト
・ダウン・バイ・ロー
・ジャージー・ボーイズ
・スモーク
・イル・ポスティーノ
・ザ・マスター